読書感想文

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vol.102 菊とポケモン

新潮社 アン・アリスン

 

序章

・日本の玩具は徹底的に娯楽としての側面を意識したから成功したと思う。海外の玩具は遊びの中にも何かしらの「学び」の要素を備えているが、日本は異なる。思うに、人々は、娯楽や遊びなどのエンタメに、資本主義が進んでいく中で人間にかかってくるストレスを緩和する癒しを求めており、それを資本主義を通して失われていくものであったり、人々の欲望を駆り立てるものがウケるものとなる。(例:力が欲しい→変身系のアニメ 家族の繋がり→サザエさん)日本のアニメが受け入れられている理由は、決して日本固有の特徴を際立たせているからではなく、世界基準に見て、人々のニーズに上手く答えているからである。

 

第2章 コジラと鉄腕アトム

コジラが日本人を魅了し、映画界きっての大ヒットになった理由は

感情に寄り添う・神秘性の2点がある。

・この映画が公開されたのは1950年代。戦争の記憶が鮮明に残っている状況だ。ゴジラは映画全編を通して、建物を破壊し、人々を殺戮し、都市が蹂躙されている様子を描いている。GHQによる戦後統治が終結し、何かにつけて「頑張る」という気風が生まれてきたこの時代では、適度なストレスがかかり始め、それを発散するかのごとく、人々の破壊衝動を上手く結びつけている。と同時に、ゴジラの映画が醸し出す恐怖や、原水爆によって無理やり起こされたという理不尽さは、人々の戦争の記憶を惹起し、故郷が焦土と化し、原爆を投下された我々は戦争の被害者であることを再認識させた。

・またゴジラは都市を破壊する目的が不明なことや、死なない超生物性は極めて神秘的であり日本人古来のアニミズムを想起させた。(この観点は割と世界共通であり、だからこそ、霊的なものとのやりとりを描く千と千尋の神隠しは世界中で大ヒットとなった。)

鉄腕アトムは、「核」という日本人の憎悪にもなり得るものをユーモラスに描いていることは驚きだ。物語の過程で父である天馬博士を物語から追放しているが、これも家父長性的な日本文化を脱却しようというメッセージが伝わったところが印象に残る。

 

第3章

・日本人のおさらい。資本主義は、加熱する受験、それで溜まるストレス、物質主義をもたらした。孤立化が進み、一人で過ごす時間が増えていく中、キャラクターや漫画、ゲームなどでそれを癒すようになっていった。

 

第4章 戦隊モノ

・一点目は戦隊モノの終盤のお決まりである「大きな機械を操作して悪と戦う」ということだ。これは、精神を持たない実体と人間が交差するということは非常にアニミズム的な世界観で日本らしいということ。(桃から生まれる侍、人に変身する鶴)この傾向はウルトラマン(出自は宇宙人)や鉄腕アトム(機械ながら人間性の獲得を目指す)にも見られる。また、普段は一般の人でありながら、優秀な機械と融合することで強い力が得られるという点は、人から戦隊、ロボットなどに移りゆく変動性は、様々な物が流動的になるポスト・モダン的時代を上手く表現しているとともに、いくら時代が進んでも、やっぱり人が必要だねということを印象付けている。

・二点目は変身について。日本では変身シーンを事細かに描く。これは、この場面が、機械の強さを知るための重要な場面と認識しており、細かなパーツまで正確に再現された玩具を発売することで売り上げを狙うという一種のマーケティングである。これは、日本人の美意識として存在しており、雑多な駄菓子屋、細かな付録の工作などに現れている。これは放送国での美意識の差であるため、上手くローカライズする必要がある。

 

第5章

・少年ヒーローと少女ヒーローの違いは何か?どちらも通常の人間が変身による強化を通して悪を倒すという構図ではある。男は、生産主義を象徴するかの如く、私心を捨て、目的を果たすために生きるという生産主義を象徴しているかのような部分があるが、少女ヒーローは魅力の増長、人間関係や愛を重視するというテーマがあると思え、そこが視聴者を引きつける。(変身シーンがエロいのも、服装が大胆になるのも、自身の魅力をアピールするため)

・なぜバービー人形は失敗して、リカちゃんは成功したか?まずは容姿。リアリズム的なバービー人形は、日本の少女がファンタジーの世界に行きずらかった。対し、リカちゃんは、日本人とフランス人のハーフとして西洋的な印象を持たせながら、日本人的要素を取り入れており、この塩梅が絶妙だった。二つ目は付属品。リカちゃんは大きなおうちで遊ばせるが、これは戦後復興を成し遂げた日本の夢として体現していた。(販売開始は1967年)

・この少女ヒーローの成功にはアイデンティティの変化にあると思う。思い込んでいた性格からは想像もつかない側面が出てきたり、身体やファッションの変化が多くの人を惹きつけている。元から多様性に基づいている設定は、需要が細分化されてくる世の中でも上手く対応していけることだろう。

 

第6章

・たまごっちとしては「どうやって空想上の生物と人間の間に関係性を持たせるか」ということにある。これは、人間の生態リズムを模倣することで、ペットを飼うということの擬似体験ができるからだと思われる。人間は一見、現実に多くを依存しているように思われるが、それと同じくらい想像世界にも依存しており、そこからアイデンティティや帰属性を得ている。以前は、想像世界に通じる行為としては、祭りや儀式が挙げられたが、現代においては、それにとって変わるようにアニメやゲーム、たまごっちといった玩具が占領している。たまごっちからの要求の多さも、必要とされているという認識を持たせるとともに、人間の本能的に持つ世話心をくすぐる。

 

第7章

ドラえもんポケモンを対比する。どちらも異世界の生物と友情と奉仕が入り混じった関係で結ばれており、生物を通じて主人公は力を得る。ただ、のび太の欠陥の多さや物語が近代主義的で目的論的だ。恐らく、戦後復興はしたけど欠陥が多い日本の姿を重ねていたと思う。ポケモンは旅をテーマにしており、主人公やポケモンが止まることなく動いていることはポストモダン的であり、ゲットのために行動を起こしている姿は自信を得た日本を描写している。

ポケモンはポスト産業社会になって疲弊した子供を解放する物であり、失われたコミュニケーションを取り戻すためのツールにしたいという製作陣の思いが伝わる作品となっている。ポケモンを構成する要素は「対戦」と「交換」だ。特に交換は他人とのコミュニケーションを促すようにするための重要な要素だ。子供同士の交流を深めるという製作陣の思いが伝わってくる。また、一人でゲームに没頭することがないように、そこまで集中力がいらないよう設計されている。人は贈与を通して自分を形成していく面があるに思う。日本でも、旅行のお土産やお中元、お歳暮としてその文化があった。しかし、資本主義が進んでいく中で、人々の興味や関心を引き付けるのは富の所有と蓄積であり、こうした文化はなくなりつつある。ポケモンを資産と捉えると、ゲットすることで溜まっていく中でも、必要に応じて交換されていく。この世界観は現代の資本主義を矯正した目指すべき世界観として提示している。

ポケモンは、物質主義が進んでいく中で失われた、非物質的、異世界、人間関係を繋ぎ止めている。

 

第8章

ポケモンが米国市場で成功していくには文化の違いを考慮した細やかな調整が必要だった。アメリカではストーリーのはっきりさ、勧善懲悪のメリハリ、圧倒的存在の主人公など、必要な要素を調整した。米国のマッケーター達は、ポケモンの無国籍化を求めており、多くの場面でそれを成し遂げているが、ポケモンという核となるコンテンツだけは手を加えず、日本の美意識である「丸み」を持たせ、可愛さを出してあり、現在は広く受けいれらている。

 

著者の結論

①米国のソフトパワーが相対的に落ちていること。

②無国籍化された作品は、製作物そのものが人々を惹きつけることがあっても、その製作国や文化に好意を持たせるまでには行かない。

③日本の知的生産物が広く浸透している理由は、現在の資本主義の現状に上手く合致したファンタジー構成であるから。